ナッジ介入におけるアカウンタビリティの確保と権利保護
ナッジ施策の導入や実施にあたっては、その対象となる市民に対する説明責任、すなわち「アカウンタビリティ」が極めて重要です。これは単に施策の目的や内容を伝えるにとどまらず、心理的・社会的影響にまで配慮した包括的な責任として捉えるべきものです。
ナッジ介入の適正なアカウンタビリティ確保に必要な視点
・事前説明の徹底
施策を実施する前に、その目的や内容を対象者に対して適切な方法で周知・通知・説明する体制を整える必要があります。信頼関係の構築はこの段階から始まります。
・事業終了時の説明責任
施策の終了時にも、対象者に対してその成果や影響について合理的かつ丁寧に説明を行い、納得と理解を得ることが求められます。
・結果の透明な公表
事業の成果については、可能な範囲でデータや分析結果を公表し、施策の意図や有効性を市民が自ら判断できるようにするべきです。
・心身や人間関係への影響に配慮
施策の実施が、対象者の心身の健康や対人関係に悪影響を及ぼすことのないよう、リスクをあらかじめ評価し、必要に応じて施策の見直しを行う柔軟性も必要です。
・人権と多様性の尊重
年齢、性別、信条、人種、社会的立場などに関する偏見や差別が生じないような配慮は、全てのナッジ施策の前提条件であるべきです。
・プライバシー保護と個人情報の厳重管理
個人情報の収集は最小限にとどめ、施策の遂行に不可欠な情報のみに限定し、その使用目的や方法について、本人の同意を可能な限り得る必要があります。また、情報の保管・管理・廃棄に関しても、適切な体制と明確なルールが求められます。
・不利益回避の体制整備
施策によって対象者またはその関係者に予期せぬ不利益が生じる可能性がある場合には、その蓋然性を慎重に検討し、場合によっては施策自体の継続を見直すなど、柔軟な対応が必要です。
・肖像権への配慮
写真や動画の使用に関しては、対象者の肖像権に十分に配慮し、同意を得た上でのみ使用するなどの慎重な対応が求められます。
・データの正確性担保
施策の成果や影響を示すデータは、社会的信頼に関わるものであり、その正確性や透明性が何よりも重視されます。
被介入者の権利保護:欧米の倫理原則に学ぶ
ナッジのように、人々の意思決定に間接的に影響を与える政策では、対象者の権利保護が非常に重要です。この分野における倫理的な指針として、欧米の心理学領域では次の6つの原則が基本とされています。
ナッジ施策における6つの倫理原則(欧米の事例より)
・自律の尊重(Respect for Autonomy)
市民が自らの判断に基づいて行動できる環境を整えること。
・無危害(Non-Maleficence)
施策によって市民に危害を加えない、心理的・身体的被害を防ぐ。
・善業(Beneficence)
対象者および社会全体にとっての便益を最大化すること。
・正義(Justice)
施策の影響が公平に及ぶよう配慮すること。
・全一性(Integrity)
一貫性と誠実さをもって施策を運営すること。
・社会的責任(Social Responsibility)
公共的な立場から社会への責任を果たすこと。
これらは、日本においてもナッジ施策を倫理的に設計・運営するための有用な指針となります。
市民の受容性と透明性への配慮
市民は、ナッジを必ずしも「自律性を侵害する操作的なもの」として捉えているわけではありません。むしろ、明示的な「命令」や「禁止」に対する反発の方が強い傾向があるとされています。
そのため、ナッジ施策が市民の支持を得るためには、その目的の正当性や効果の妥当性が、市民の価値観と一致しているかどうかが重要になります。
キャス・サンスティーンとルチア・ライシュによる著書『データで見る行動経済学――全世界大規模調査で見えてきた「ナッジの真実」』(大竹文雄ほか訳、日本経済新聞出版)では、次のように述べられています。
「ナッジの目指す目標が正当かつ重要である限り、ナッジはおおむね支持される可能性が高い」
このように、ナッジの受容性には、市民の価値判断との整合性と、施策の透明性が深く関わっているといえます。
ナッジ施策の実施における実務上の留意点
以下は、行政機関がナッジ政策を実行する際に留意すべき具体的なポイントです。
(ア) 自律の尊重と情報の透明性
・被介入者の自由意志を不当に制限しないこと。
・施策の目的・手法・影響を可能な限り明示する。
例:健康的な食生活を促す際、選択肢の提示とその効果を明確にし、市民が自発的に選べるようにする。